展示案内
文化情報広場
第4展示室上部の文化情報広場では、各地の博物館の展示情報など、全国から寄せられた文化情報に関する多数のチラシをお持ち帰りいただけます。 また、併設された休憩スペースでは,週替わりの映像展示(上映時間約20分)をご覧いただけます。
かつてユーラシア大陸を東西に結んだシルクロード。その一つ,オアシスの道に関する風景や文化遺産について,西谷正名誉館長撮影の写真でご紹介します。
【会期:令和6年9月10日(火)~令和6年12月8日(日)】
※ホームページでのみご覧いただけます
祇園山古墳は久留米市御井町字高良山にある方墳です。昭和44年から47年にかけて、福岡県教育委員会が九州縦貫高速道路建設に先立って発掘調査を行った結果、古墳時代前期の重要な古墳であることがわかりました。祇園山古墳の後背には高良山があり、そこに鎮座する高良大社には祇園山古墳から出土したと言い伝えられている三角縁神獣鏡が所蔵されています。古墳裾部の甕棺に鏡片が副葬されていたことから、古墳の被葬者が葬られた墳頂の大型箱式石棺に三角縁神獣鏡が納められていた可能性は高いでしょう。高良山山麓には祇園山古墳築造後に多くの古墳が造られており、高良山山麓が古墳時代前期に久留米地域の中心地であったことを物語っています。
▲調査時の祇園山古墳
当初の工事計画では破壊されることになっていたので、全面調査されました。大型古墳は指定文化財として保存されていることが多く、調査するとしても最低限の範囲で行うため、この調査は大型古墳の全容を知ることができる貴重な事例となりました。
▲ピラミッドのような墳丘
最下段の石列が残っているため、上から見るとほぼ正方形であることがはっきりわかります。東西23.7m × 南北22.9mで、辺は直線でなくややふくらみがあることがみてとれます。墳頂部の中央には大型の箱式石棺が残っていました。
▲墳丘側面
墳丘は2段築成で、高さは現状で約5mですが、埋葬施設が現地表下45㎝で発見されているので、本来はもう少し高かったでしょう。
▲葺石
2段の斜面にはそれぞれ葺石がありました。1段目は墳丘の範囲を示すもので、墳丘裾を削って大きめの石を並べ、その上に数段だけ石を積み上げています。2段目は墳丘の流失を防ぐため全面に石を貼っていました。
▲墳丘の断面のようす
墳丘の構造を知るため一部を立ち割ってみました。黒っぽい土層は古墳を作った時の地表面の植物が腐ったもので、尾根の高まりに少し盛り土したのではなく、高く盛り上げたことがわかります。
▲不明柱穴
古墳裾部にはほかの時代の生活の痕跡がほとんどありません。柱穴もここで見られるだけなので、この柱穴は古墳が造られた時のものと考えられます。糸島市前原遺跡で「鳥居状遺構」とされる2基単位の柱穴が発見されたほか、古墳の墳丘上や横穴式石室前庭部からも柱穴が発見されています。土生田純之氏は霊魂のよりつく依り代として建てられたのではないかと考えています。
▲墳頂部石棺の蓋石
墳頂部には蓋石と見られる大きな板石があり、そばに小さな板石が不規則に置かれていました。小さな石は蓋石と蓋石の隙間を埋めるために使われることがありますが、棺内から副葬品が出土しなかったことから、小板石が集まっているところから盗掘されたと考えられます。
▲墳頂部石棺の蓋石検出状況
蓋石は約140×170㎝で、人と比べると蓋石の大きさがわかります。蓋を開けてみると棺の中だけでなく蓋石の下側に赤色顔料が塗られていました。
▲墳頂部の箱式石棺
埋葬施設は箱式石棺であり、大きな板石を立てて、倒れないように裏から石で押さえ、粘土で固定していました。内法の底付近で長さ約2m、幅約0.9mで、棺内には赤色顔料が塗られていました。分析の結果、この赤色顔料はベンガラでした。棺内外に副葬品が残っておらず、墳頂部に置かれる土器も残っていませんでした。石棺は現在も現地の墳頂で見ることができます。
▲墳丘裾の墓群
墳裾からは62基の墓が発見されました。古墳のまわりに多くの墓が造られる様子は、魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述にある「奴婢100人あまりの殉葬」を彷彿とさせられますが、なかには古墳時代中期の墓も含まれており、すべてが古墳と同じ時期に造られた墓ではないようです。
▲古墳南西隅裾の墓群
墳丘裾の墓は箱式石棺墓7基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、甕棺墓3基、竪穴式石室13基(石棺系竪穴式石室を含む)、不明 7基で、古墳時代前期の小型墓に見られる種類がほとんど揃っています。これらの埋葬施設の差は階層の違いを示していると考えられています。
▲古墳北辺裾西側の墓群
裾部の墓の多くは方墳の辺に平行か垂直方向に作られており、墳丘下に作られたものはありませんでした。このことから、祇園山古墳より古い墓はなく、祇園山古墳築造を契機に周囲に造られたことがわかります。東辺の北側は墓が造られていませんが、これは固い岩盤が露出していたためとみられています。
▲裾部外周第9号箱式石棺墓
箱式石棺墓は、掘り方に粘土で裏込めして板石を立て、箱形に組み合わせて箱形の棺を作ったものです。底面には板石や小礫などで石敷きし、粘土や石の枕が置かれたものが見られます。この石棺墓には枕はありませんが、粘土枕があり、内面にはベンガラが塗られていました。
▲裾部外周第12号箱式石棺墓
頭の部分に馬蹄形で中央をくぼませた粘土枕が設置されていました。すべての棺に見られるものではないので、木製など材質の違う枕もあったのかもしれません。
▲裾部外周第6号石蓋土壙墓
石蓋土壙墓は素掘りの墓穴に板石の蓋を被せたもので、箱式石棺を省略したものと考えられています。弥生時代後期から古墳時代前期の北部九州に多く見られ、祇園山古墳裾部外周で最も多い埋葬施設です。 6号石蓋土壙墓の蓋石は並び方に乱れがあり、墓壙の端にかかっていないものがあったので、墓壙が埋まってしまったあとに置き直されたようです。
▲裾部第1号甕棺
甕棺は掘り方を掘って下甕を据え付け、上甕や蓋を被せますが、この甕棺は下甕が半分地上に露出しています。おそらく小さな塚を作って地表面に露出した上甕を覆っていたと考えられます。
▲裾部第1号甕棺出土玉類・鏡片
第1号甕棺からは玉類と鏡片が出土しました。棺が斜めなので本来の位置からはずれているようです。人骨もわずかに残っていました。分析の結果、小柄な成人女性とわかりました。大型の勾玉と鏡片を持つことから、祭祀に関わる巫女だったのではないでしょうか。赤色顔料は棺に塗られていたものはベンガラでしたが、骨に付着していたのは水銀朱でした。水銀朱は貴重だったので使い分けされていたようです。
▲裾部第1号甕棺出土玉類と鏡片
第1号甕棺からは管玉2点と勾玉1点、鏡片が出土した。勾玉は大型品で、頭部の側面に3本の刻みがあります。この刻みのある勾玉は古墳時代の勾玉の中でも格式の高い物と考えられています。鏡片は中国製の半円方形帯鏡と呼ばれる型式です。端に孔が1つ空けられ、割れ口は研磨されていたので、孔に紐を通してこの状態で使用していたようです。
▲高速道路工事後の古墳
古墳のある丘は、高良大社の『高良玉垂宮神秘書』に記さ「大祝職日姓子ノミコトノヒウ」と記されており、大祝家の祖である日往子命の墓に比定されており、工事前に久留米市教育員会・筑後地区郷土研究会の保存要望を出されました。これを受けて福岡県教育委員会と道路公団とが協議を行い、設計変更によって墳丘の80%を保存することになりました。祇園山古墳は昭和53年3月には県の史跡に指定され、見学できるように整備されています。
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