展示案内

文化情報広場

第4展示室上部の文化情報広場では、各地の博物館の展示情報など、全国から寄せられた文化情報に関する多数のチラシをお持ち帰りいただけます。 また、福岡県の世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」や、県内外の文化財について紹介するパネル展示も実施しています。

パネル展「船原古墳遺物埋納坑調査の最前線2021-2022」

 船原古墳は福岡県古賀市に所在する6世紀末から7世紀初頭の前方後円墳です。平成25(2014)年3月に古墳の傍らで発見された遺物埋納坑からは,国際色豊かで豪華な遺物が未盗掘の状態で出土したことで注目を集めています。
 九州歴史資料館では遺物埋納坑の発見当初より古賀市教育委員会と共同で,これら遺物の科学的調査及び研究を進めています。令和3(2021)年度は,朝鮮半島からの舶載品と考えられている冠帽状の付属具を取り付けた「竪矧板革綴冑」をはじめとした,冑や鎧などの武具,「小札甲」について明らかにする調査を行いました。本展では,これら遺物の考古学的,科学的調査の成果や保存処理によって明らかになった最新情報を紹介します。
【会期:令和4年3月29日(火)~令和4年6月26日(日)】

Webパネル展「古墳時代前期の福岡1 対外交渉を担った首長の墓ー福岡市若八幡宮古墳」

※ホームページでのみご覧いただけます

九州北西部の玄界灘沿岸は、古くから対外交渉の窓口でした。古墳時代前期には、博多湾沿岸・糸島・宗像に対外交渉を掌握した豪族の墓とみられる前方後円墳が造られました。若八幡宮古墳は福岡市西区大字徳永字下引地にある前方後円墳で、昭和45年に今宿バイパス建設に先立って、福岡県教育委員会が墳形、墳丘規模及び埋葬施設の確認調査を行いました。調査の結果、豊富な副葬品が残る古墳時代前期の重要な古墳であることがわかったため、保存されることになりました。古墳は現在も見ることができ、出土品の多くは、九州歴史資料館の常設展「歴史の宝石箱」で展示しています。
▲今宿バイパス工事前の今宿地区 昭和45年撮影
若八幡宮古墳は、福岡市西部の今宿平野のほぼ中央部に位置し、南にそびえる高祖(たかす)山から突出する標高29mの丘陵上にあります。
▲調査前の後円部
古墳は、若八幡宮神社の社殿に後円部の一部が開削されていますが、神社の裏山であったことから大きな破壊を免れて現代まで残っていました。
▲後円部の調査
埋葬施設は後円部の中央にあり、粘土で作った、丸太を刳り貫いた木棺を据え付けるための施設が発見されました。粘土は黄白色のものが一般的ですが、古墳では赤褐色の粘質土でした。
▲後円部から見た前方部
墳丘の前方部の先端は切り通しによって削られていました。そのため正確な長さがわかりませんが、46から48mほどと考えられています。調査期間が限られていたため、くびれ部など墳丘の規格や構造を解明するために必要な部分のみ調査しました。後円部と前方部の間をつなぐスロープの部分にも葺石(ふきいし)が見られました。
▲墳丘側面の段築と葺石(ふきいし)
後円部は3段、前方部は2段に造られています。斜面には葺石が貼られていましたが、多くがすでに流失していました。円筒埴輪は見られませんでした。
▲棺密閉用の粘土
木製の棺は腐って残っていませんが、棺の身と蓋を密閉した粘土が残っていました。広い短辺側は棺内側に押されて壊れていましたが、盗掘されていないことがわかりました。
▲埋葬施設
棺は長さ2.75m、幅は上辺が1.2m、下辺が0.85mと上辺が広くなっています。丸太を刳り貫いた木棺は、細長いものが一般的ですが、福岡平野ではこのような幅広のタイプが多く見られます。
▲鏡の上に残る棺材
鏡は遺体の頭のそばに置かれていたものでしょう。鏡の上の板は、木棺の蓋が棺内に落ち込んで銅鏡に接し化学変化を起こしたことで腐らずに残ったものです。分析の結果、材質はスギとわかりました。
  ▲三角縁二神二獣鏡
神像と神獣が2対向かい合わせに配置されている三角縁神獣鏡の中でも、古い型式です。完全な形ですが、変形のため割れた部分が繋がりませんでした。
▲鏡の下に残る板材
鏡を取り上げると、その下に板の一部が残っていました。銅の鏡に接していた部分だけが腐らずに残ったものです。木目の方向から棺の板材ではなく、鏡を入れた木箱の板のようでした。
▲棺小口部の副葬品
粘土の外側に短甲(たんこう)が前を開いた状態で置かれていました。棺に立て掛けていたらしく、蓋が腐って棺内に落ち込んだ時に冑(かぶと)の上の部分が折れて棺内に倒れ込んでいました。短甲を開いて副葬するのは珍しい事例です。刀剣が遺体の左右に置かれていたことから、この短甲は小口部を守るために開いて置かれたのでしょうか。
 ▲方形板革綴短甲(ほうけいいたかわとじたんこう)略図 橋本達也氏作図
本古墳出土の短甲は、四角い縦長の鉄板を皮紐で閉じ合わせて組み立てる、短甲の出現段階の型式の一つであり、全国的にも出土数が少ないものです。古墳時代中期には量産型の短甲が作られますが、古墳時代前期のものは個体差が大きく、試行錯誤しながら技術を向上させたことがわかります。製作地は日本列島か朝鮮半島かはっきりしていません。
▲鉄製品出土状況
遺体の右の位置に鉄製環頭大刀1口、鉄剣1口、鉄鏃19本、ヤリガンナ1本が束になって置かれていました。棺の蓋が腐り落ちた時に、一部が棺内に落ち込んだようです。
▲三葉文環頭大刀
大刀は束頭に、丸い環の中に三葉形の飾りがつく三葉文環頭大刀です。この大刀は、三葉文の中でも初期のデザインで、朝鮮半島からの舶載品でしょう。柄の部分には紐らしいものが巻かれており、刀身には布が付着していたと記録されています。鞘らしい木質は残っていませんでした。短い方の刀は、保存処理した結果、やや報告書とは異なった形状になっています。
▲折り曲がったヤリガンナ
ヤリガンナは板を削る工具で、意図的に折り曲げられて副葬されていました。このように鉄製品を折り曲げて副葬する習俗は、3世紀末~4世紀後半の北部九州と朝鮮半島南部に見られ、畿内・東日本へと伝播しています。なぜ鉄製品を折り曲げるのかはわかっていません。
▲異形の刀子
刀子は先端が反り返る珍しい形であり、北部九州と朝鮮半島南部に多く見られます。
▲今宿古墳群 昭和45年撮影
①山ノ鼻1号墳②若八幡宮古墳③女原C-14号墳(下谷古墳)④今宿大塚古墳⑤丸隈山古墳⑥兜塚古墳(小松原1号墳)⑦飯氏二塚古墳⑧飯氏4・5号墳(子捨塚古墳)⑨飯氏鏡原古墳⑩飯氏B-14号墳
若八幡宮古墳は、高祖山北麓にひろがる今宿古墳群の1つです。現在は、山ノ鼻1号墳→若八幡宮古墳→鋤崎古墳→丸隈山古墳→飯氏鏡原古墳→兜塚古墳→今宿大塚古墳の順に築造されたと考えられています。古墳群の価値が評価され、昭和3年に3基が国の史跡に指定されました。さらに平成16年に4基が追加指定されました。若八幡宮古墳から丸隈山古墳の3基からは、日本で最も「古い」「珍しい」遺物や遺構が発見されており、これらの古墳の被葬者は、対外交渉を担い、大和政権から特別な待遇を受けていたと考えられています。
▲つながったままの状態で出土した管玉
遺体の頭の横の位置に、紐を通した状態で、遺体には着けずに、埋葬する際にそばに置いたものです。管玉14個、ガラス小玉2個が置かれていました。管玉の多くは碧玉製ですが、劣化しているものはガラス製とみられます。ガラス製管玉は非常に珍しいものです。
▲墳頂で発見された小型埋葬施設
墳頂部の浅いところに、小型の墓がありました。中央にトレンチがあったため、全体像がわかりませんが、土層から見ると、舟形木棺であったようです。円盤形銅製品と土器が出土しています。円盤形製品は石製紡錘車に似ていますが、銅製品は珍しい事例です。若八幡宮古墳は、年代を決めることができる土器の出土が少なく、この埋葬施設出土の土器により、古墳は4世紀中頃とわかりました。
▲若八幡宮古墳出土鏡の鋳造実験
鋳型の素材は砂型で、木枠内に鋳型に適した粒子の小さい砂を詰めて作ります。踏み返しの場合は、原型になる鏡を木枠内に入れてから砂を入れます。砂を型枠から外しても壊れないように突き固め、木枠ごと裏返して彫り面にします。
▲木型で同心円を彫る
回転台を回しながらコンパスのような木型で、輪郭となる外縁と凸線など同心円状の文様を彫ります。
▲細かい文様は型紙から彫る
繊細な文様が彫れるように、真土(まね)という鋳物土の層を貼り、薄い型紙を貼った上から主な線を彫ります。
▲半球状の乳や珠文はスタンプを使う
乳は乳座を持つので、一緒にスタンプできるような道具を作っておきます。
▲細部を仕上げる
写真を横に置いて、比較しながら細かい部分を彫り仕上げていきます。
  ▲鋳造後の鋳型
約1200度で溶かされた材料を鋳型に流し込み、冷えて鋳型を外します。ひび割れしましたが、完全に破壊しなくても製品を取り出すことができました。真土層の部分が剥がれてしまいましたが、彫り直しなど補修すれば再度使えそうなので、熟練工人であれば同じ鋳型で作る同笵鏡は制作可能であることがわかりました。
   ▲取り出したての鏡
鋳型から取り出したての製品には、溶けた材料を流し込んだ湯口と、流し込むときに鋳型の中で発生するガスを抜くためのガス抜き穴の部分がついており、縁は、はみ出したバリでギザギザになっています。
▲完成した鏡
不要な部分を取り除いて磨き、光り輝く銅鏡が完成しました。

展示案内