展示案内

文化情報広場

第4展示室上部の文化情報広場では、各地の博物館の展示情報など、全国から寄せられた文化情報に関する多数のチラシをお持ち帰りいただけます。 また、福岡県が推進している世界遺産登録活動や、県内外の文化財について紹介するパネル展示も実施しています。

パネル展「邪馬台国への道 後編」

邪馬台国は、かつて倭と呼ばれていた日本列島に存在したクニの一つで、女王卑弥呼が都を置いたことで広く知られています。古代中国の歴史書である『三国志』の「魏書」中(魏志倭人伝)に記録されていました。この「魏志倭人伝」が書かれた中国大陸から、邪馬台国に至る道に面したクニの遺跡については、九州歴史資料館の西谷正名誉館長が長年研究され、多くの写真も撮影されてきました。その一部は昨年度、「邪馬台国への道(前編)」として展示し、中国大陸から北部九州に至るまでの遺跡について紹介しました。
本展では後編として、邪馬台国へ至る道に関する日本国内の遺跡について、西谷名誉館長撮影の写真で紹介します。本展を通して、邪馬台国の時代に関する遺跡と、その調査成果について紹介できれば幸いです。
【会期:令和3年10月26日(火)~令和4年3月27日(日)】

Webパネル展「朝鮮半島の文化遺産(5) -朝鮮王朝の城郭- 」

※ホームページでのみご覧いただけます

玄界灘という海の道を通して九州と結ばれていた朝鮮半島には、古代以来の城郭や寺院など、多くの文化遺産が受け継がれています。これらの文化遺産は、単に朝鮮半島の歴史のみならず、半島と交流のあった日本、特に北部九州の歴史を解明する上での、貴重な資料でもあります。そのため福岡県では韓国国立文化財研究所と研究交流を実施し、長年これらの文化遺産の調査研究を行ってきました。
その成果の公開として、当館ではこれまで西谷正名誉館長が撮影した、朝鮮半島各時代の城郭などに関するパネル展を実施してきました。今回のパネル展では、これに続いて朝鮮王朝の城郭について展示します。
この展示を通して、朝鮮半島の文化財を広くご紹介させていただき、日本と韓国との文化交流の一助となれば幸いです。
    ▲東大門
現在の大韓民国(韓国)の首都・ソウルは、李朝(朝鮮)時代には最初、漢陽と呼ばれ、やがて漢城と呼ばれるようになりました。その都城は、周囲18.6kmにわたって石築の城壁で囲まれ、四ヵ所に大門が設けられていました。この門は、そのうちの一つの東大門です。
▲南漢山城
ソウルの南の守りの城として築かれたのが、この南漢山城です。城壁に設けられた雉(馬面)や城内で建物群などが発掘調査されています。2014年に、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
▲南漢山城の城門
数ヵ所あった城門の一つです。
▲南漢山城 行宮跡
発掘調査によって、行宮跡の礎石建物が明らかにされました。仁祖14年(1636)には、丙子の乱つまり清の侵入の際に、国王の仁祖が一時的に逃れたところとして知られています。
▲水原城
京畿道水原市に残る邑城跡です。華城とも呼ばれました。正祖17年(1793)の末から翌年初めにかけて築造が開始され、3年近くの歳月を費やして、1796年の秋に完成しました。邑城の規模や築城技術などの工事概況は、『華城城役儀軌』(1800年)に詳しく記録されています。主要建物群や諸施設の状況から見て、正祖はここを離宮として造営したことがうかがえます。
▲水原城 華虹門
城壁の南北2ヵ所に設けられた水門のうちの、南側の水門です。城内を流れる川の部分の城壁構造の様子がうかがえます。大宰府の水城大堤の水門構造を考える際に参考となるでしょう。水原城は、1997年に華城の名称で世界文化遺産に登録されています。
▲楽安邑城
全羅南道順天市の近くにある邑城です。全国に600ヵ所ほどあったといわれる城郭集落の一つです。当時の様子をもっともよく残す史跡です。東・西・南に門を開いています。城内の北半部は、瓦葺きの官庁建物群であるのに対して、南半部はワラ葺きの一般住民の居住区です。
▲楽安邑城 東門
東門には楼門が建てられ、その外側は甕城(枡形)と呼ばれる複雑な構造になっていて、防御性をより堅固にしています。
▲西南部から見た楽安邑城
南側の楼門と甕城(枡形)構造が見えます。城壁の外側には垓字(濠)がめぐっていました。
▲海美邑城 正門(鎮南門)
忠清南道瑞山市に残る邑城です。ここは、成宗22年(1491)に築造されたときは、石築の城壁が周囲3200尺(1km余り)近い規模でしたが、英祖朝までに6600尺余りに拡大されました。そして、城壁の外側には、垓字(濠)がめぐっていました。内部の発掘調査で、官衙の大門・客舎などの建物跡や、陶磁器・瓦塼などの遺物が出土しました。
▲海美邑城 南側城壁部分
写真奥の正門である南門(鎮南門)と手前の雉(馬面)が見えます。城壁外側の垓字(濠)の部分は埋め立てられています。
     ▲海美山城
海美邑城の北方約1kmの山には、山城が築かれ、逃げ城としての役割を果たしていたようです。石築の城壁が崩落している様子が見てとれます。
▲上党山城
忠清北道清州市によく残る上党山城があります。城壁に設けられた城門(手前)や雉(馬面)(奥)の様子がうかがえます。
▲高敞邑城①
全羅北道高敞郡に残る高敞邑城です。甕城(枡形)構造をもつ城門(正門)から西側の城壁を見たところです。
▲高敞邑城②
甕城(枡形)構造をもつ城門(正門)から東側の城壁を見たところです。
▲金海邑城
慶尚南道金海市に残る金海邑城の甕城(枡形)構造を備えた北門です。写真左手背後の山に盆山山城があります。
▲金海・盆山山城
平地の金海邑城の逃げ城として築かれた山城です。文禄の役(1592)の折に、小西行長軍が攻め込んでいます。
▲熊川邑城 北門
慶尚南道鎮海市に残る熊川邑城の北門です。門楼外側に設けられた、平面が半円形をした甕城(枡形)構造が見てとれます。写真右手奥の山に熊川倭城があります。
▲熊川邑城と熊川倭城
熊川邑城の北門から南側へ延びる城壁部分です。写真正面に見える山に、文禄の役のとき小早川隆景が築いた、熊川倭城があります。
▲熊川倭城
文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)のとき、小西行長や宗義智が在番した倭城です。城壁がよく残っています。南方眼下には、南海岸の多島海が見わたせます。
▲順天倭城 天守台
全羅南道順天市の順天倭城です。慶長の役(慶長2年-1597)のとき、宇喜多秀家、藤堂高虎が築城しました。そして、小西行長らが在番しました。最近になって、史跡が整備されました。
▲整備が進んだ順天倭城
天守台から東方を見たところです。順天倭城における豊臣秀吉軍と朝鮮・明軍との戦闘の様子は、『征倭紀功図巻』に詳しく描かれています。
▲圓寂山烽燧台
慶尚南道梁山郡にある烽燧台の遺跡です。李朝時代の烽燧制度は世宗代(1418~1450)に整備され、徳宗21年(1895)に烽燧軍が解体、廃止されるまで、400年以上にわたって機能しました。烽燧台は、全国に600ヵ所前後が網の目のように張りめぐらされていました。
▲圓寂山烽燧台 復元図
発掘調査の結果と、『梁山郡邑誌』などにもとづいて想定された復元図です。『梁山郡邑誌』によると、別将1人、監考(財政担当)1人の兵員と、軍(警備員)100名が任務についていたようです。そして、刀2振、槍1柄、鳥銃2丁、火箭(弓)9個のほか、馬糞5石、牛糞5石などで装備されていました。

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