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三沢遺跡

 三沢(みつさわ)遺跡は、九州歴史資料館の東隣の丘陵に位置する、弥生時代中期の集落および古墳時代後期の古墳群からなる複合遺跡です。はるか2,000年前より、この地で人々が生活を行っていた痕跡が発掘調査により明らかになっています。

遺跡の発見と史跡指定

三沢遺跡調査状況(空撮)
 小郡市北部・筑紫野市南部は昭和45年(1970)ごろから都市化が始まり、昭和47年(1972)、当時の小郡町と筑紫野町が同時に市制を施行しました。「日本列島改造論」が掲げられ、日本の各所で大規模な開発が開始され始めた頃、時を同じくして小郡・筑紫野ニュータウン計画は進み、1972年、福岡県種畜場、三沢ピクニックセンター付近の山林から開発が始まりました。この大開発では数多くの遺跡が発見され、事前に実施された発掘調査により多くの成果がありましたが、調査後はその遺跡のほとんどが失われました。
 三沢遺跡の発見も、当時の大規模開発が端緒となりました。昭和40年代の初め、九州自動車道(九州縦貫自動車道鹿児島線)建設に伴い、福岡県種畜場の牧草地だった三沢の丘陵地が道路建設の土取り用地の候補地として選定されました。昭和45年(1970)に福岡県種畜場跡地に対して埋蔵文化財の予備調査が行われた所、当地に遺跡が存在することが確認されました。そして翌年に行われた遺跡の確認調査で、竪穴住居跡や貯蔵穴などからなる弥生時代の集落「三沢遺跡」が発見されたのです。
 当初の予定では、遺跡は土取りにより消滅することとなっていましたが、発見された弥生時代の集落は、集落構造や当時の生活様式を考える上で、非常に重要な遺跡であり、なおかつ保存状態も良好であるとして遺跡の保存活動が起こりました。その動きは専門家だけではなく市民の間にも広がることとなり、新聞各社も遺跡の重要性や保存活動を報じました。その結果、昭和47年に遺跡の現状保存が決定、さらに昭和53年に福岡県史跡に指定され、三沢遺跡は永久に保存されることが決定したのです。

発掘調査の成果

 昭和46年1月に行われた遺跡の確認調査の結果、丘陵上全体に弥生時代中期(今から約2,000年前)の集落が残っていることが明らかになりました。遺跡は四つに分かれる丘陵上にあり、一つの丘陵上には当時の家族単位と考えられる竪穴住居と貯蔵穴(食物を保存する穴)がいくつか集まって集落を営んでいました。また、現在展望台がある丘陵には、集落の中心に位置し、集会所のような公共的な機能があった可能性のある竪穴住居が見つかりました。それぞれの丘陵ごとに家族単位の生活集団が形成され、丘陵全体で複数の家族が集まった農村集落を営んでいたと考えることができます。丘陵上には耕作痕跡は見つかっていませんが、丘陵と丘陵の間の谷は湧水が豊かで、谷水田を営む条件に適していることから、これらの低地に存在した可能性があります。このように、三沢遺跡は、弥生時代の農村集落の全体像がわかる貴重な遺跡であることが判明し、県の史跡に指定されたのです。
 弥生時代の集落の他、遺跡内では古墳群が確認され、発掘調査が実施されています。いずれも古墳時代後期の円墳で、埋葬施設として横穴式石室を有していました。すでに盗掘を受けかなりの部分が破壊されていましたが、須恵器や鉄器などの副葬品が出土しました。三沢遺跡内では古墳時代の住居は確認されていません。古墳時代には三沢遺跡は日常の生活域ではなく、墓域へと変わっていることがわかっています。
円形住居
円形住居
三沢古墳群横穴式石室
 周辺は宅地開発などにより大規模に開発されましたが、多くの人が関わり、保存された三沢遺跡は、現在、自然豊かな森として市民の憩い、散策の場となっています。

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